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富山県護国神社
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富山県護國神社の創建

富山県護国神社の創建
富山縣護國神社の創建について、詳しく述べますと。日本で言へば幕末の頃、
白人列強の有色人種への侵略の魔手は愈々我國の周辺、東アジアにも及んで来ました。それは今日的見方の「侵略」の善悪とは別次元の当時の世界の潮流だつたのです。特にアヘン戦争等により白人列強に蚕食(桑の葉が食べられるやうに)される清國の有様を見た幕末の先人達は、清國の二の舞を踏んではならないと、明治維新を成し遂げ、祖國の尊厳ある独立を守り通す為に、先進諸國にも学びつつ懸命の努力を重ねました。

東アジアの地図を思ひ浮かべて見ませう。
当時も、そして現在只今も、朝鮮半島は正に、日本列島に突き付けられた短刀のやうなものなのです。「北朝鮮によるミサイルや拉致問題更に核武装問題」「韓國による竹島占拠問題」等を思へば、朝鮮半島並びにその周辺の情勢が、如何に日本の安全に決定的に重要かよく理解出来ます。

かねてから領土的野望もあり、東アジアにおける不凍港を獲得しようと東進南下策を採つてゐたロシアは、清國の弱体に付け入り、幕末、明治初頭益々満洲(現在、「中國東北部」と称されてゐる地域)での拠点を拡大し、明治二十八年日本が東洋の安定を図って戦つた日清戦争で得た遼東半島を三國干渉により無理矢理清國に還付させるに至り、我國は國民挙げて「臥薪嘗胆ー辛さ、苦しさに耐へ、他日の大成を期す」を合言葉に我慢しました。そしてロシアは清國に迫り各種特権を手中にし、東洋艦隊を旅順、大連に進め、日本から取り上げた遼東半島を自ら租借(他國の領土を借り受ける)し、明治三十三年清國の義和団の乱に便乗して南満洲に大兵刀を派兵、乱終結後も撤兵の約を破り、却て明治三十六年には満韓國境に軍を移動、集結させたのです。これは、満洲を略取し、韓國を併合し、やがて日本をも侵略せんとの野望に他ならないものでした。日本は問題を平和裡に解決しようとロシアと交渉すること十回、その間もロシアは十月には奉天を占領、十一月には軍を遼東半島に進める等、ロシアは交渉を単なる時間稼ぎにしてゐたのであり、我國は已む無く起ち上がる以外には選択肢の無い所まで追ひ詰められたのでした。

明治三十七年二月六日交渉には遂に決裂、日本は東洋の平和と、自國の独立保持の為決然矛を執つたのです。これが「日露戦争」であります。日露戦争後、國中がその勝利の喜びに沸きかへり、祝賀行事も多く実施されましたが、同時に國の為、尊い命を捧げられた英靈を慰靈顕彰する招魂社が各縣に於いて創建されたのでした。富山縣にあつては、明治四十五年三月、時の富山縣会に於いて全会一致にて「富山縣招魂社」(のちの富山縣護國神社)の創建が認められ、大正二年十月四日御鎭座祭、翌五日、最初の大祭を齋行したのであります。

其の後、昭和十四年三月五日「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」と言ふ内務省令第十二號の交付に依り、同年四月一より「富山縣護國神社」と改称されたのであります。名稱や制度に變遷はありますが、「國の爲に盡した人々の”みたま”を未来永劫、大切にお祀りする」と言ふこころは不變であります。


富山縣護國神社
富山県富山市磯部町1-1 TEL:076-421-6957 FAX:076-421-6965
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