「富山大空襲」の話
「富山大空襲」
遺芳館アナウンスガイド13
「富山大空襲」
昭和二十年八月一日、富山県は米軍による大空襲をうけました。市街地は一夜にして廃墟となり、死者は約三千人、負傷者は約八千人にのぼりました。
米軍は非戦闘員の殺傷、非軍事目標並びに無防備都市の攻撃を禁止した、国際法ハーグ陸戦条約に違反し、大量の焼夷弾を一般民家に投下したのです。しかも、まず橋を落とし、次に炎の壁をつくり、そして低空にて爆弾をおとす、多くの罪なき人をまさに袋のネズミとして殺戮したのでありました。
氷見市太田、島尾、窪の浜には後日多く焼死者の御遺体が毎日のやうに流れ着いたさうです。神通川へ飛び込んだ方々でありませう。若い母親が生まれたばかりの赤ん坊をおぶつたまま、小さな二人の姉弟が離れまいとへこ帯で手を縛り合つたまま、片手のない兵隊さんの姿等々。今も尚、島尾の地に於いては、これらの御霊をお慰めしやうと慰霊祭が執り行はれてをります。
下に展示されたものは実際に富山市に投下された焼夷弾であります。