昭和二十年三月十一日
南太平洋ウルシー海域にて特攻戦死
海軍飛行予備学生十三期生
砺波市出身 二十六歳
遺芳館アナウンスガイド10
根尾 久男命(ねお ひさおのみこと)
海軍少佐 海軍飛行予科練習学生
第五航空隊菊水隊梓隊第八区隊長
ウルシー環礁在伯敵艦船に特攻戰死
二十六歳
根尾久男少佐は富山県東砺波郡庄下村(現 砺波市)の出身であります。
先の大戰において早稲田大学在学中志願され、海軍飛行予備学生となり昭和二十年三月十一日、特攻散華されました。
齢二十六歳。當時の新聞紙上において片岡啓三命(十九年十二月十四日シキホールにて特攻戰死)、中尾邦爲命(二十年一月六日サンフェルナンド沖にて特攻戰死)とともに富山県人「神鷲三人」と稱へられた。
この日、爆撃機「銀河」に搭乗、八〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋を発ち長躯一五〇〇浬(二八〇〇キロメートル)十一時間に及ぶ洋上飛行ののち、西南太平洋のウルシ―環礁に在泊する敵艦船を攻撃、必死必中の体当たりを以て戰死されたものです。
ここで当時の戰況を振返へれば、緒戰における我が軍の赫赫たる大戰果は既に過去のものとなり、昭和十九年七月になるとサイパン島を失陥、十月には米軍レイテ島上陸、昭和二十年二月硫黄島上陸、その日またB29一五〇機を以て東京を空襲すると云ふやうに、敵はひたひたと日本本土に迫つてゐた頃でありました。
硫黄島の戰ひは伝へられるように大激戰で彼我共に死闘を尽し、両軍ともに二万人以上の死傷者を数へましたが、それほど硫黄島は戰略上重要地点であつたことを示してゐます。
米軍は上陸に際し七万の兵力と数百隻の艦船を以て島を包囲攻撃したと伝へられてゐます。
この時、空母を含む敵の機動部隊根拠地は西カロリン諸島ウルシ―にあると偵察報告があり、ここに我が連合艦隊はウルシ―を奇襲攻撃せんとして特攻隊を編成したのが本作戰概要であります。
即ち、鹿屋を基地とする第五航空隊指令部では「第二次丹作戰」を発動、最新鋭爆撃機「銀河」二十四機を以て敵根拠地の攻撃に当てました。「菊水隊梓隊」と名付けられた特攻隊員七十二名と共に、根尾少佐は第八区隊長として立派に使命を全うされたのでありました。
勇魂録
(九月七日)
遙かにわが父を念ふ お父さま! 戦乱のさ中に 銃こそ採らさね 白髪を風になびかせ
老の身を更にいとはで ひたすらに皇国の勝を 神々に 国人に 祈り説きつつ
厳しくも世を渡ります されども 嗚呼、血を別つ子 久男われには 尊くも
他に替へ難き 神のごとき父 お父さま! お父さま!
今も忘らぬ 我が征くと 競ひしその日 集ひ来し伯父叔母達 更にあまた村人達の
最ン中に座りましし父の 「久男は我が意に叶へる子なり」との その一言 お父さま
忘れぞ得まじ 我が心深く秘め来て 流されし熱き涙と共に 永遠に君に仕ふる
武士(もののふ)の情(ココロ)の泉に 滾々と流れ出づべし
お父さま!
別れ来しより 今日の日の 今の今まで 懐かしの緑の村に わが帰る日はなかりしも
かくして 更に更に故郷遠く 天駈る翼にむちうち 畏くも 貴き 皇が命のままに
憎きもの 米夷が首を ひしぐべく我は征くべし 懐かしき父にも会はで 許させ給へ