昭和二十年四月十六日
沖縄方面にて特攻戦死
海軍乙種飛行予科練習生第十八期生
立山町半屋出身 十九歳
遺芳館アナウンスガイド8
耕作 精一命(こうさく せいいちのみこと)
海軍二飛曹乙飛十八期生
第三十八幡護皇隊
第二國分より出撃
嘉手納沖にて昭和二十年四月十八日特攻戰死
立山町出身 十九歳
前略
父母様其の后元氣ですか、私も至極元氣です。愈々戰機重大なる秋、私も神風特攻の一員として櫻花の如く散つて行きます。泣かずに笑つて下さい。六日、十二日の攻撃に出ました。十二日の攻撃では、世界十二億中一番好きであつた戰友(倉田)(二人で写つてゐる左)をうしなつた。(倉田一飛曹は、高知縣安藝郡室戸町河原町(倉田久專)ノ一人男である。俺とは三年間毎夜一緒にゐた戰友中ノ戰友である。原籍地トノ交サイを御願致します。
私は今出撃の前夜です。時間ない故これにて元氣で暮し下さる様御祈りして私は、永遠の道に進む。其れから十二日の出撃前の一億の皆様へ一言言つたた事が(二〇~二六間)の全國に放ソウされる故聴き下さい。
では、さやうなら。
事実の遺書となる
四月十五日
我れ后二十四時間以内に 永遠の道に着く 母さん泣ないでね
兄さん 父上様に 御酒をのませてね
拝啓 今日も 月清明にて
出撃せず而し、明日は愈々特攻々撃が決行する
(四月十六日)
懐しの倉田とは靖國の下で
又会ふ倉田の故郷との
交際を御願する
では、父母、兄さん 妹 姉さん
さようなら
(最後の通信となる)
この遺書は通信筒により投下されたもの。「兄さん、父上様には酒をのませてね。」とありますが、兄、幸雄氏の想ひ出話に依れば、御父君は大変お酒がお好きであつたので「自分が戰死したら、國からいくらかの扶助料が出るであらうから、それで充分にお酒を飲ませてあげて欲しい」とのお気持あつたといふことです。