舟木榮作 命

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昭和十三年十月六日
中支湖北省箕心瑙附近
にて戦死
新湊市








 
 
 
 【松原元二郎様宛葉書】(発信地・富山歩三五―六)
注・以下四通は昭和十二年のもの
 其の後お変はありませんか、お伺ひ致します。不本意ながら遂永らく御無音に打過ぎ誠に申訳有りません。謹んでおわび致します。私は珍らしくもない補充兵教育として未教育補充兵の教育に専念致して居ります。野戦の富士井部隊も相当傷死者出来た様で、第一線に起(た)つ日も近き事と信じ居ります。
 何卒御一同の御健康を祈上ます。慣れない班長勤務でせはしい為め音信も疎遠致かも知れませんが悪しからず。尚立町清子様等にも御宜敷。
 
 
【松原元次郎様友二様宛封書】(発信地・歩三五―六)
嗚呼熱情ある友二君
 舟木家の血を分ちたる友二君
只今拾月拾一日午后拾一時四拾分、配達されたる速達便、心の総てを現はしたる血書のハンケチ有難く有難く只感涙しつゝ御受取り致しました。今晩は中隊長殿以下中隊幹部拾四名、市内に於いて盛大な会食を致し、まどろけき夢をたどりつゝある時、不寝番のユリ起し、そして差出されたる此の心の書、ほんたうに心から御礼申上ます。何時からの念願達せられ、喜んで行きます。御承知の通り私には兄弟一人も有りません。親達の心情を思へば如何かと思ひますが、一度籍を軍人に有した以上、錦旗の下に馳せ参じ本懐を完うするは誠に本望であり、且又一同の御蔭に依り下級幹部の一員として出動するは私の本懐之に過ぎるは有りません。大兄も生業に勉励致され多々御不幸にある御姉妹を慰めつゝ、老いたる而(しか)も御辛労されつゝある御両親に御孝養を層一層相尽くされて、むつまじき御一家をいやが上にも幸多く築かれん事を深く御祈り申上ます。今のハンケチ幾何の金銭即ち物的御後援に優る実に精神的御贈り物にして、此の上尊き物は有りません。之即ち日本精神の発露であります。
 今度は折々御便り致し度(たく)と思ひますが、何分戦地の事故、音信意の如く成らざる事と信じます。何卆御宜敷御願ひ申上ます。では、しばらくのお別れ元気良く行つて参ります。
 御一同様の御多幸を御祈りしつゝ筆を止めます。有難う存じました。
     拾月拾一日午后零時
             舟木伍長
 
錦旗…天子の御旗。皇軍であることの「しるし」。
 
 
【松原元二郎様宛葉書】(発信地・吉住部隊富士井部隊土田隊松前隊)
 拾一月十九日蘇州に入城以来大追撃戦に移り、一日の余裕もなく遂不本意ながらの疎遠お許し下さい。
 拾二月十三日御一同様の御蔭様に依り無事南京に入城致しました。南京城頭にひるがへる日章旗、只浮ぶは涙のみです。御一同様の御健勝を祈ります。詳しくは後便に。
 
発信地の下に記入の某々部隊以下について…自分の所属する部隊の上級者順に記してある。例へばこの場合では「第九師団長吉住良輔中将、第三十五聯隊長富士井末吉大佐、同第二大隊長土田兵吉少佐、同第七中隊長松前勝平大尉」である。
南京入城…(後注1)
 

【松原元次郎殿・友二様宛葉書】(○○ニテ)
 待ちこがれた内地依りの第一報有難う存じました。暗いランプの下で皆様の御健康を拝し、安心致しました。私も先便の通り十二月十三日南京に入城致し今は待機中ですが、十二月二十六日出発で蘇州で守備につく筈です。お正月は五十里ノ道を行軍途上です。何分御一同様によろしく。詳しくは後便に。先は御礼迄。
 
里…一里は約三九二七・三メートル。
 
 
【松原友二様宛葉書】(発信地・上海派遣軍吉住部隊富士井隊松前隊)
                                   注・これ以後は昭和十三年のもの 
 度々のお便り有難う存じます。御一同様には相変らず御達者の趣、誠に御目出度事と存じます。故郷の事等細かく知り、ほんたうに嬉しう存じました。私はお蔭様で元気です。御安心下さい。今は六十余里の行軍も恙(つつが)なく一月六日より我が富士井部隊が一番乗りをした支那の古都○○に駐屯致し、次期作戦の準備をなしてゐます。我が治安工作不滅正義日本を知りてか、四十余日前の○○と現在の○○とは実に天地の差があります。避難民は皈り皆挙手の敬礼をするのも一異影です。又市内各所に自治会が設けられ、支那巡査もできて相当おだやかになりました。では後便に。
 
古都○○…後注2
 
支那巡査…日本軍の進駐地で警察任務を担当する支那人の警察官。
 
 
【松原元二郎様宛葉書】
其の後御一同様には御変りは有りませんか。陣中にて案じて居ります。私は御蔭様で□□で奮戦致して居ります。御安心下さい。皇軍は連戦連勝致して居ります。聖戦も近きになきやと信じて居ります。詳しくは秘密故、後程に致します。では留守中よろしくお願ひ申上ます。
 
皇軍…天皇が統率し給ひ、又は差遣せられる軍勢。嘗ての、我が大日本帝国陸、海軍のこと。
 
 
【松原友一様宛葉書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊吉松部隊)
其後御一同様にはお変は御座いませんか、お伺ひ致します。私はお蔭様で元気旺盛にて活躍しつゝあり御安心下さい。何分留守中およろしく。御父母上様始め姉妹様にもおよろしく申して下さい。
ではおからだを大切に。
 
 
【松原友二様宛封書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊荒瀬隊)
 其の後御一同様には御変りは御座いませんか、お伺ひ申上げます。度々お忙(せはし)い中にも御丁寧にお便りを戴き、誠に有難う存じます。
 回顧すれば実に字の如き砲煙弾雨の中にも今日迄命永らへた事は神仏の加護であり、且又御貴君の如き尊き血書してまでのお祈りの外なに物もないのです。時折血書のハンカチーフを出しては、東方を拝しては感謝の念に燃えてゐます。お蔭様で今尚元気で宣撫工作、敗残兵掃蕩の我部隊と行動を共にしつゝ、今十三日志気軒昂にして皈つて来ました。何卆御安心下さい。
 内地はとても不景気ださうですね。御地は如何ですか。親愛なる友二君、貴君の現在の生業、其れは私達異国に在つて身命を君国に捧げて御奉公してゐると何等変りはないのです。尊い職業、衛生に篤とご注意してお勤め下さい。お願ひ致します。
 禅野部隊長殿も勇敢にお働きになつてゐます。では、お父上や姉上様におよろしくお伝へ下さい。戦況の事は、新聞・ラヂオ等で篤とお了承の事と存じますから省略致します。
  冷たき月下午后十時書く
 二月十三日     舟木栄作
 松原友二殿
 
宣撫工作…占領地区の住民に占領軍の本意を理解させて人心を安定させる事。
 
掃蕩…払ひ除く事。平らげる事。
 
 
【松原友二様宛封書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊荒瀬隊)
 親愛なる友二大兄よ、度々の御便り有難う。ほんたうに感謝の誠を捧げ厚くお礼申上ます。御一同様には御達者の由、何より結構な事と喜んで居ります。私もお蔭様で相変らず元気です。
戦況ほんたうに知り度(た)いでせう。私も将来の事は不明ですが、過去の戦闘は申しても良い様なものですが、而(しか)し軍は皆秘密です。内地では新聞・ラヂオで発表してゐても、戦地にある私共からは申されません。又面談する日もあるでせう。その時はとくと語り合ひませう。気候は内地の五月初旬の様な暖かさです。水濠蘇州は前にも申した通り日本の京都市の様です。二月二十日迄避難民が皈来(きらい)する様布告されたので、今は昼の富山の総曲輪通りの様に賑やかですが、夜は一人も通る人がないです。十七八才の青年と字で話すのも戦地での慰安の一助です。例へば日本=道徳国、中国=野蛮国、君はどうして野蛮な中国に生れたかと問へば、天然的に生れたと答へる等、面白いですよ。蘇州美人も世界にやかましい処たくさんゐます。而し治安工作の我等戦士にはそんな考は不用です。たゞ御期待の戦功をたてゐ(ママ)なかつた事を深くおわび致します。
 先は御返信迄
    二月二十三日      舟木栄作
 松原友二殿
 二伸 御姉妹様に御宜敷申して下さい。友二君、兄弟なき私は淋しいです。そして亡き妹の事を思ひ浮べて泣く事も有ります。兄弟は大切なものです。兄弟なき私はほんたうに淋しいです。
 
治安工作…占領地区の安寧秩序を守る事。
 
 
【松原元二郎様宛葉書】(発信地・上海派遣軍吉住部隊富士井部隊松前隊)
 前略御面下被(くだされ)度(たく)候
 只今は御丁重な御慰問品を御送付下被有難くお受取り致しました。内地は非常に不景気の由承はります折の御慰問品只感泣の外御座いませぬ。厚くお礼申上げます。先は取敢へず御礼申上ます。
二月二十三日
 
 
【松原友二様宛封書】
友二君
度々のお便り有難う御座います。御一同様にはお達者との事、お喜び申上ます。私もやせてはゐるが、至つて平常から病まない方で、異郷にあつても皆様のお祈りに依つて益々元気です。御安心下さい。 一人の兄弟なき私、実際貴君から戴く手紙□、丸池文子から下さるお便りに何時もまぶたがあつくなりますよ。 気候は恵まれてあたゝかですが、二三日前に雪がちら〱降りましたが、今は又良いお天道様です。江南の地に見る雪景色は又格別で、何時迄も降り続く北国の銀世界とは、ちと問題にならんです。
鰯も少々取れる様ですね。新湊の人もたくさん這入つてお出るですよ。奈呉の釣栄造君、野積君や加治君とか、そして淋しい時には、余り行つた事もない私でも、さも通つた様に神楽の話題を持出し、戦陣の慰めとしてゐます。仰せの通り、詩吟も陣中では英気を養ふにもつてこいだらうけど、惜しい事には余り知つてゐないのでさ。
 暴徒に依つて破壊されたレンガ作りの家も□く建設されつゝ有り、我が皇軍の手に依つて新興に芽生えて来た支那の姿を見れば、我が事の様に嬉しいです。巷に叫ぶカイル(帰)云々、それはそれは私の如き若輩はとうてい望まれぬ事です。東洋平和確立されずんば出来得ない事と確信し、御奉公の誠を致す可く軍務に専念致して居りますれば、何卆御安心下され度。
 末筆ながら高岡、江柱、清子、三枝さんにおよろしく申して下さい。
                 栄作
 友二□
 
詩吟…漢詩や和歌等を朗詠する事。
 
 
【松原友二様宛封書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊藤井隊)
親愛なる友二君
 大陸の春は収縮されたのか今日も六月中旬、昨十七日の如きは寒暖計は九十度を示して居ります。だから、段々に藤アヤメなんかは咲き誇つて居ります。我等つはものも夏衣袴を支給されて、子供に晴着をきせた様に嬉しい気持さ。
 出鱈目(でたらめ)申して済みません。お許し下さい。皆様お達者で御座いますか、お伺ひ申上ます。私もお蔭様で元気です。そして咲き乱れ行く広野の草花を見ては、故国の春はと思ひを空に走らせて居ります。何時も激励のお手紙有難う存じました。厚くお礼申上ます。姉妹様もお達者の由、お目出度う御座います。
良民は皇軍の真意を理解し、広い〱田園に七尺もある長い竹の柄をつけた鍬で、一鍬〱力強く新興支那のために耕して居ります。何分今後今より以上疎遠に流れる事と思ひます。何卆悪しからずお許し下さいませ。
 では御父母上様におよろしく申して下さい。さやうなら。
     四月十九日     舟木栄作
 松原友二君
 
 
【松原友二様宛封書】
 友二様
 度々お便り有難う存じました。先づ御承知の通り四月下旬より○○の大会戦に参加致して居りましたので、不本意ながら疎遠致した次第、お許し下さい。六月三日先発致し、以前の任地○○に到り、次期作戦の為に戦力の養成に専念致して居りますが、此の間貴兄よりお差出のお便り、徐州入城祝賀の町の状況報告迄の分数本戴き、ほんたうに有難う存じました。深くお礼申上ます。今次作戦は相当の酷暑と強行軍に加へて飲料水なく我々の苦闘やお察し下さい。そして彼の敵は強固な陣地に対し、我等は見渡す限り広い麦畑、何等の依る可き地形なき畑地を進撃するんだから心労を察して下さい。又或る時は山上で夜を徹し、幾倍の敵と戦ひ、私も鉄カブトに一弾を受けましたが、星章にあたつたのと御神仏の加護で、かすり傷も受けず今日在りを得ました事を思ふと只感泣の外ありません。
さう、貴君の写真立派なのね、有難う。何分天をつくの意気でやつて下さい。僕もね、此の度軍曹に進級しました。喜んでやつて下さい。私達も貴君の様に七・五糎で一百数十里を追撃して今迄居た処へ皈(かへ)つたのだと思ふと人間も立派ですな。私も小躯なりと雖も数日分の糧抹をかつぎ、或は砂塵の中を、或は泥土の中ヒザを没する中を奮闘した体力には、我ながら不思議で他の人も驚いてました。何分戦況は申されません。新聞で御想像下さい。先は御案内迄。
   六月十五日      舟木栄作
 松原友二君
 
七・五糎(センチ)・・・文面及び日付けから察するに、この手紙は昭和十三年四月発動された徐州作戦の頃のものであり、『富山聯隊史』を参照すると当時使用された「七・五糎」の口径と云へば、四一式(明治四十一年採用の山砲、後に「聯隊砲」)か、九四式(皇紀二五九四年式)山砲の何れかである。
 
 
【松原友二様宛封書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊吉松部隊荒瀬隊)
 六月弐拾日 雨
 今日も亦降雨、今日で二十日も続くんだ。どんな大敵と戦つてもいやではないが、二十日も雨降りにはほんたうに困つちやつたよ。兵隊も人間だ、戦闘間の雨でぬれ、それを体温でかわかすのはなんでもないが、少し戦力養成で休むとゼイタクな事を言ふが、着がへの服があるでなしほんたうに困るよ。
 友二君、内地の緊張振りをお手紙で想像してをりますが、私達も亦次期作戦、まだ〱やらねば消解跡(蒋介石)も参つたとは云はぬのかな。いや彼が参つたと言つても又○方に五年前の十倍の兵力と陣地を構築して我をニランでゐるではないか。而し東洋平和確立も近いでせう。先づ先づお互ひにしつかりやらう。あ、去年の今頃は、田祭で餅を食べた日は、温泉から皈つたのは、今年だつたらそんなゼイタクな温泉遊びも出来ぬ。今ではチヤンの子等は日ノ丸ソメテアゝウツクシヤとか、もしもしかめよとかの日本の小学校の歌を学校でならつて、上手に歌つてゐます。五十日前徐州に向ふ時はこんな歌がなかつたんだが、さうサイレンも聞える、なんと嬉しい現況だらう。支那良民よ、早く我が日本に皈れよ。
 つまらない事を多くならべた、お許し下さい。其の後元気ですか。僕は相変らず達者です。御安心下さい。お母様に田植の手伝ひに来て戴いた由、ほんたうに有難う御座いました。およろしく申して下さい。御姉上様にもおよろしく申して下さい。
 次、私も此の度相当の成績で歩兵軍曹に進級致しました。其の姿を徐州会戦より皈還直後撮影した物を送りました。見て下さい。でも刀は人の借り物、実はやはり三八式歩兵銃を持つて突進するんですからね。では乱筆お許し。
  六月二十日         舟木栄作
 松原友二殿
     帽は鉄帽でなく、貴君も局でカムル防暑帽です。
 
 
【松原友二様宛封書】(発信地・同前)
愈々陽は照りセミはジリジリと朝から晩迄鳴き続け、狭い支那街ほんたうに暑くなりました。其の後貴君にはお変りは御座いませんか、お伺ひ致します。私達は七月五日から九日迄○○方面の掃蕩に出動、□□□□四月八日出及六月三十日差出のお便りを落手、開封の暇もなく又○○方面に強力な遊撃隊なる物現はる、直に○○隊は掃滅すべしの命令一下直に出動、凱歌高らかに七月十日皈営(きえい)致しました。先づ元気ですから御安心下さい。
今次の掃蕩は主として湖水なりしを以て船(支那地方人所有の小舟)で攻撃致したのですが、一部落〱掃蕩するのですが、日本軍の居ない所は言葉も通ぜぬので、船を止めよと言つても分らず、早めと言つても分らず、又一軒一軒に飼つてゐる犬はほえるのに、□が夜間と云はず昼はと云はず非常に困るのです。私達の云ふのでは、犬を鳴かせると敵に察知されるを避ける為、鳴かせるなと云ふんだが、内地で云へばイヤコノ犬ハカンバラヌデスと云ふんだ□一向にかまはぬ体、又船を止めるのでもベッサと云はねば止めぬ始末で非常に困つたのです。遊撃隊も相当便衣を着ながらでも軍紀風紀が強固で、支那人は支那国土を忘るなと叫びつゝ我が軍を奇襲せんと策謀しつゝある、密偵の情報頻りで治安工作も仲々です。あ、玉子嬢も嫁がれた由、戦争をよそに甘い生活を続けてお出るですね。何処の辺へ行かれたですかね、町名は。御両親様の重荷は貴君の□君一人ですね。今から修養され、時代に適応せる者を皆依り選ぶ可きだね、まあ余□あやまりお許し下さい。
 御父母上様におよろしく申して下さい。
 先はお伺ひの上で
 
遊撃隊…予め攻撃すべき敵を定めないで、戦列外にあつて臨機に行動する隊。
 
皈営…兵営に帰る事。
 
便衣…普段に着る衣服。平服を纏つて潜入し宣伝・暗殺・破壊などをなす支那の兵。
 
軍紀…軍隊の規律又は風紀。
 
 
【松原友二様宛葉書】(発信地・伊集団吉住部隊寺垣部隊吉松部隊荒瀬隊)
友二大兄よ、度々お便り有難う御座います。皆お達者の由、お目出度う御座います。週報有難う。熱誠籠つた貴君のお便りには何時も泣かされます。厚くお礼申上ます。降而(くだつて)私はお蔭様で至極元気です。○○国も露骨にやり出しましたね。私共も近く○○作戦に参加致す可くと信じ、一意戦力養成に専念致して居ります。大兄から贈られた血染めのハンカチーフ(速達便で受け)、血のハンカチーフを身につけて奮闘する日も近きと存じます。以後、又暫時疎遠致す可く悪しからず。
御父母上様及び姉妹様におよろしく申して下さいませ。
 先はお礼迄
七月二十七日
 
 
【松原友二様宛葉書】(発信地・同前)
 友二大兄様、度々有難う。週報も有難く拝読致して居ります。貴君の熱意には何時も泣かされます。何卆銃後でしつかり頑張つてゐて下さい。皆様にはお達者でせうかね、お伺ひ致します。私も相変らずです。今私達は○○作戦に参加すべく一生懸命です。襦袢もカーキ色に染めましたよ。今で白い襦袢とおわかれですよ。立町のボーヤから手紙を戴きました。小さいボーヤ迄が僕の為に祈つて居て呉れるのかと思ふと、いつしか瞳があつくなりました。大兄からもおよろしく申して下さいませ。愈々近く活躍すべくと存じますに付き、週報も御折角の御厚情には存じますが、定地に落つく迄お差控へ下さいませ。お願ひ致します。尚音信も多忙な戦務に追はれ、意の如くならざるべく何卆悪しからず。皆様御身体を大切にして下さいませ。姉妹様にもおよろしく申して下さい。先は乱筆にて御免下さいませ。      八月一日
 
銃後…戦場では後方勤務の兵員。一般には非戦闘員たる国民全体を指して云ふ。
 
襦袢…肌につけて着る短衣。肌着。
 
 
【松原友二様宛葉書】(発信地・上海派遣吉住部隊富士井部隊松前隊)
只今七月二十四日出御手紙只今落手。
 御一同様には皆達者の由お喜び致して居ります。そして又、再三小包御送付下され有難くお礼申上ます。心のこもつた尊い品、近く到着の事と喜んで居ります。厚くお礼申上ます。近況前便に申し有り、省略致します。何卆皆様おからだを大切に、留守中およろしくお願ひ致します。
 八月五日     舟木栄作
 松原友二様
 やせた軍曹の近影笑つて下さいませ。
 
 
【松原元二郎様宛葉書】(発信地・○○ニテ、消印一三、八、二六)
 其の後お変はないですか、お伺ひ致します。私はお蔭様で元気で六日間の航行も恙なく八月十八日激戦ノ地○○に上陸、第一線への一歩の敵前四里前です。何分お体を大切に。留守中およろしく。
 八月十八日  御案内迄
 
 
【松原元二郎様宛葉書】(発信地・南支派遣吉住兵団寺垣部隊荒瀬隊)
 黄金波打つ秋となりました。御一同様には御変りは御座いませんか。お伺ひ致します。私はお蔭様で愈々元気旺盛で御奉公致して居ります。之とても皆御神仏の加護と御一同様の祈念の賜と深く感銘致し居ります。留守中は何卒よろしく。
 
 
①南京入城…南京攻防戦の折、時の南京市長は、米国人七人、英国人四人、独逸人三人、デンマーク人一人計十五人の第三国人が管理する「南京国際安全区」を設け、全市民にここへの避難を命じた。この安全区国際委の十五人は南京陥落の十二月十三日から、翌年の二月九日迄の五十八日間毎日々々日記を書き、日本の領事館に日本軍の犯罪行為を告発した。それに依ると、側聞まで含めて殺人は四十九件であつた。この委員の中のラーベと云ふ委員長は日本軍に対し「安全区は火事一つなく、鉄砲も撃ち込まれず安全でございました。ありがとうございました」と云ふ意味の感謝状を出した。
 当時の朝日新聞は南京陥落後の南京の状況について、昭和十二年十二月二十日から三十日かけて多くの写真を交えた特集を掲載してゐる。それには、二十日、「平和蘇る南京」の題で、皇軍入場に安心して畑を耕す農民他、二十一日、皇軍による支那人へのミルク配給、二十二日、日本の軍医や看護兵の手当を受ける支那兵、日本兵がザルに入れた白飯を支那人に配給、二十五日、日本の兵隊と支那の子供達が、明るい笑顔で遊ぶ等々の事が写真入りで大々的に連日報道されてゐる。
 
②古都○○…中支派遣軍の記録に依れば第三十五聯隊を含む九師団は蘇州一帯の警備を命ぜられ、十二月二十六日南京出発。翌年一月六日蘇州着となつてゐる。依つてこの○○は蘇州である。前述の南京での国際安全委員会の感謝状と云ひ、この手紙の「相当おだやか」と云ひ、皇軍の軍紀のよく保たれてゐることに留意すべきであらう。



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