佐竹吉隆 命

02_satake.jpg昭和十九年五月二十日
アリューシャン方面にて戦死
魚津市印田出身 二十八歳

【佐竹清吉様宛封書】(注・昭和十二年十二月の手紙)
前略其の後は長らく御無音に打過ぎ誠に失礼仕り候。予定急変此の度○○に補せられ近日再び勇躍征途に上ることゝ相成り候。男児の本懐之に過ぐるもの無く一死以て鴻恩の万一にも酬ゆる覚悟に御座候。
先般帰郷の際婚姻に関し種々御配慮を忝(かたじけな)うし感謝感激に堪へざ
るところなるも最早結婚の必要は勿論その暇も御座無く候へば何卆
斯様御承知下され度く候。此の際小官の一身上に関することは全て
断念下され度く候。
末筆乍ら、母上様にくれ?も宜しく御伝言下され度く。
時下愈々向寒の砌くれ?も御自愛の程切に御祈り申し上げ候。
敬白
吉隆拝



父上様
特に音信等の必要ある向は宛先は左に依られたし。
十二月二十五日迄に到達の見込あるもの

佐世保水交社宛
佐世保局気付伊号第百八十潜水艦
(第百八十一潜水艦に非ず、為念)
正月前内地を離るゝ関係上、若し出来得れば餅若干(昨年貰つた
程度にて可)成るべく速に御送付を得ば幸甚至極に御座候。
宛先 佐世保市上町一番地水交社

十二月二十五日迄に到着のこと。それ以後ならば送付の必要なし。



【佐竹清吉様宛封書】(注・これ以後は昭和十八年)
用済後要焼却
謹啓
酷暑の候皆様には益々御壮健のことゝ推察致し候。
只今はからずも内地に帰投無量の感に打たれ居り候。米撃滅のためには寸暇も許されず下旬再び出撃の予定にしてその間四日間の休暇を賜りたるも遠距離なると戦備に忙殺されをる為遺憾乍ら帰省不可能なり。今回宿望叶ひ愈々単身虎口に突入することゝなれり。男子の本懐之に過ぐるもの無く勇気百倍成功を確信致し居り候。
此の上は只重責を全うし以て鴻恩に酬ゆるのみ。
敬具



○月○日 吉隆拝
父上様
一.兄上は其の後転勤されしや。若し以前通りとせば戦死確実なり。又小官十月上旬戦死するにつき、差支なければ隆三速に結婚せしめられ度し。  
  任官後少くとも一ヶ年内地陸上勤務のことに依頼しあり。
  充分暇ありものと認む。

二.小官戦死後のことは全部六十五期会員に依頼済。



【佐竹清吉様宛封書】
拝復
只今御手紙有難く拝見、皆様御健在の由、誠に喜びに堪へず候。
兄上戦死の件は誤りなること判明せるにつき取消し申し候。昨日小官の同期生岡野大尉(兄上と同地に警備中の○○聯合陸戦隊副官)より極めて健在なる旨確報ありたるに付何卆御休心下され度く。
先日軽薄にも戦死と申し上げたるは、小官同方面行動中、作戦打合の際偶々面談の暇を得て訪問せるも、既に戦死とのことにて遂に面会するを得ず。又其の後○○部隊全滅との報に接したるにより、諸状況を綜合し戦死と判断せるも右は何等かの錯誤に因るものと推\察致し居り候。

いづれにせよ健在なること確実なれば何卆御休心下され度。小官の誤判断の為甚だ御心配をかけ誠に申訳なく幾重にも御詫び申し上げ候。何卆御寛恕下され度。

さて小官、不日勇躍米撃滅の壮途に上ることゝ相成り候。最早時既に遅く面談の機も得られず甚だ遺憾至極に存じ候へども何とも詮方無し。何卆諦め下され度く候。
今や何一つ心残りとても無く心正に明鏡の如し。唯米撃滅の一念あるのみ。
他日太平洋の彼方に赫々たる戦果挙りたるの報あらば小官勇戦奮闘せるものと思召し下され度く候。
御自愛の程を切に?御祈り申し上げ候。

敬白
 
 
 
 昭和十八年八月十七日 吉隆拝    
父上様
【佐竹清吉様宛封書】
多年練成せる実力を発揮すべき秋(とき)遂に到る。
「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り。粉骨砕身各員其の任務を全うせよ」との聯合艦隊司令長官の訓示を肝に銘じ全力を尽して一意戦務に従事致し居り候。
 
此の度の大東亜戦争に於いて、武運目出度くも第一線に出づ。男子の本懐無上の光栄なり。その責務の重且大なるをくれ?も肝に銘じ自重自愛、粉骨砕身一死以てその本分達成に邁進致すべく候。元気益旺盛、意気愈軒昂たり。
沈黙の海軍其の実力は誠に推り知れざるものあり。何卆我が海軍を充分信頼の上、大いに御安心下され度く。生還もとより期せざれども思ひ遺すことも亦更に無し。たゞ御自愛の程のみ切に御祈り申し上げ候。
 
敬白
 
 
 
昭和十八年十二月十五日  吉隆
父上様
一.爾今郵便物は、
  「佐世保局気付駆逐艦峯雲士官室」宛にて送付下され度く。作
戦の都合上当今当方より音信せざるも内地よりの音信は差支へ無し。
 
二.小官去る十月十五日大尉に進級致し候。
 



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