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平成29年 4月 12日

フィリピン共和國での海外慰靈祭のご報告(平成29年4月12日)

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 2月5日より8日まで、第三十一回全國護國神社會青壮年神職海外研修会がフィリピン共和國で開催され、當神社から禰宜が参加いたしました。
 大東亜戰爭の天王山として約四十七万人といふ最も多くの方が戰死され、さらには約百万人のフィリピン國民が犠牲となりました處へ赴くにあたり、また、マバラカット東飛行場跡地での神風特別攻撃隊戰歿者慰靈祭では齋主としてご奉仕させていただく為に、二カ月前の12月初め、講師の井上和彦先生の本を再度熟読しつつ、私の鎭魂の旅が始まりました。
 5日の初日は、靖國神社の大前にて参拜、開講式、井上講師の講義の後、德川宮司様をはじめ職員の皆様方に見送りいただき、羽田空港より飛び立ちマニラのホテルに到着した時はすっかり日も沈んだ夜でありました。夕食をとり解散後、部屋に着くと同室の廣島護國神社の松下和正様より、直ぐにフィリピンで亡くなられた縣出身の英靈に慰靈祭を致したいと有難き申し出があり、お互ひ白衣に着替へて、松下様には広島縣出身者だけでなく、富山縣出身者の御靈(みたま)にまでも祝詞奏上していただき、ホテルの部屋より拜禮し、身の引き締まる初日でありました。松下様には、その後も色々とお世話になり、非常に有意義な時間を過ごす事ができ、有難い限りでありました。
 翌日、神風特別攻撃隊の慰靈碑が建つマバラカットへ移動。マバラカット東飛行場は、当時の戰局を打開するため「神風特別攻撃隊」を提唱し組織した大西瀧治郎中将が、特攻のさきがけとなる関行男大尉率ゐる「敷島隊」等と水杯を交はした飛行場であり、特攻隊員の忠誠心、規律を守る心、愛国心の精神に感銘を受けたフィリピン人の画家ダニエル・H・ディソン氏の働きかけにより慰靈碑が建立されました。その後、火山の噴火などにより焼失、マバラカット市により再建された慰靈碑の建つ齋場に着くと、そこは交通量の激しい大きな道路の傍にあり、意外に騒がしい處でありました。
 祭典では、神風特別攻撃隊を含む陸・海・空すべての特別攻撃隊にて散華されました御靈に祝詞を奏上いたしました。昭和19年10月25日、大西中将と神風特別攻撃隊の隊員が水杯を交はした場所で直会の献杯を致した時、今日の平和な世のありがたさと、その礎となり玉の緒のみ命を捧げられた御靈に対しまして、何とも言へない複雑な感慨深い思ひでありました。
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 その後、昭和17年1月9日から4月3日にかけて駐留していた米軍と激しい戰ひが繰り広げられた、バターン半島サマット山麓にある第十六師団慰靈碑前に移動して、黙祷を捧げ、「君が代」斉唱、「海ゆかば」を奉唱しました。
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 三日目は、日本政府により建立されてゐる、カラリヤ日本人戦歿者慰靈園「比島戰歿者の碑」前にてフィリピン全戰歿者慰靈祭を松下様が齋主となりまして齋行。昨年、天皇皇后両陛下におかせられましては、行幸啓遊ばされました處であります。祭典中には、少し強い風が終始吹いてをり、祭典後バスの中で日系二世である現地ガイドの鈴木様が、「生きてをればバナハオ山で会はう、と言はれてゐたそのバナハオ山から涼しい風が吹いてゐましたね。皆さんの慰靈祭に合せて御靈が集まってきたのでせうね。」と話された時には、思はず目頭が熱くなり、バナハオ山の方角へ振り向くと、先程まで雲で覆はれ全く姿が見えずにゐた山がうっすらと現れ、その神々しい山容を拜することができ、すべての慰靈祭を無事に奉仕できた喜びと重なり、涙が溢れ出すのでありました。
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 バターン半島のサマット山やカラリヤまでの移動の車窓は、今では戰禍はほとんど見受けられず穏やかな景色であり、大東亜戰爭で最も多くの戰歿者がをられる處とは考へられない様でありました。
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 しかしながら、山下奉文大将、本間正晴中将が復讐裁判により処刑されたマッキリン山麓の終焉の處をお参りする時は、両将の云はれなき裁判に対する怒りか、その時だけ、日差しが肌に強く突き刺すやうに照りつけられるのでありました。
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 井上講師には、二晩に亘つて講義いただきました。大東亜戰爭で日本がアジア諸国に於いてどれだけ称賛されてゐるか、日本と海外とに大きな歴史認識の違ひがあることが語られただけではなく、現在の外交政治情勢になどについてもお話いただき、特に昨年、ドュテルテ大統領が神風特別攻撃隊が飛び立つた10月25日に来日された意味について、最も親日家であり日本を称賛してゐる証であるといふことを教へていただきました。
 最後に現地ガイドの鈴木様の言葉、「マッカーサーが去り、マッカーサーが戻つてきたフィリピンには、戰後、マニラの市街地戰など云はれなき反日感情が残されてをり、戰後の賠償で多額のお金が支払はれましたが、フィリピン人の感情が変はることはありませんでした。時の神奈川県知事の内山岩太郎氏が大量の浅野セメントをフィリピンに運び、拠り所であるマニラ大聖堂などを修復してから、感情が変はつてきました。決してお金を与へることではなく、相手の文化や風習を理解していただくといふことが大切なのです。」が印象に残り、大事なことを教はりました。
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 海外での慰靈祭を通じて、あらためて護國神社の神主として、また誇りある日本人として、日々のご英靈の慰靈顕彰に務めることの大切さを再認識いたしました。