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平成28年 3月 22日
沖縄慰靈祭鹿児島知覧研修旅行に参加して②(平成28年3月22日 )
慶良間(キラマ)チージ(シュガーローフ)(安里五十二高地)
現在は丘の頂上に安里配水池のタンクがあります
米国第六海兵師団を十日間釘付けにした標高五十二mの小高い丘。
上陸した米軍から見ると那覇市街の入口に位置し、第三十二軍司令部(司令官牛島満中将)が置かれてゐる首里から西へ一、五キロに位置するこの丘こそ沖縄戰における天王山であり、米兵から『地獄のシュガーローフ』と形容された場所であります。この地の守備を担当したのが独立混成第十五連隊(佐倉・甲府・東京・松本・富山・金沢・仙台・会津若松の各地から本部・中隊ごとに編成して編入された)を基幹とする部隊でありました。
ここでの作戰を指揮した米軍第六師団の師団長シェファード少将は後に、「一見何のへんてつもなく、地図にも載つてない小さな丘で、これが師団を十日間も釘付けにした恐るべき高地には到底見えなかつた」とし、「この作戰こそ、最も困難な戰ひであつた」と供述してゐます。
昭和二十年五月十二日、同高地に対する米軍の攻撃が開始されるが、守備隊の必死の敢闘により米軍を撃退、以後激しい攻防が繰り返され、多い日には七、八回も丘の占領者が変はつたと云はれます。我が軍の連日連夜の敢闘により、米軍には2662名の戰死傷者と1289名の精神異常者が発生したと云はれてをります。日本側の損害については、この戰闘に限つた統計がないため明らかではございませんが、富山縣の出身者は二百名弱の方々が戰死されてをります。
現在この地は那覇市水道局の管理地となり頂上には水道タンクがあり、付近にはおもろまちの駅が出来て商業施設などが作られ、ここが沖縄戰における激戰の地であつたことを知る人は少ない。しかしながら、圧倒的に上回る戰力の米軍に対し、食糧・弾薬・医薬品といつた戰闘に必要な物は早々に枯渇しながらも、その米軍の戰力をも上回る精神力と決死の銃剣突撃により、米兵達を戰慄させた日本軍将兵たちの悲壮な姿を思ふと、多くの御英靈が尊き命を捧げられたこの場所のことも、強く記憶にとどめなければならないのであります。
安里貯水池より首里城方面を望む
中央の大きな屋根が首里城で、その地下に第三十二軍司令部の壕がありました。
第三十二軍司令部壕跡(首里城)
首里城守礼門を進み円鑑池へ下りる階段下左側にあります