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平成27年 3月 28日

「台湾が称賛する昔の日本を再認識する旅」のご報告(平成27年3月28日)

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 富山縣護國神社崇敬会では、「台湾が称賛する昔の日本を再認識する旅」と題して3月9日から13日までの四泊五日の日程で台湾方面の研修旅行を開催しました。この研修旅行は、ジャーナリストの井上和彦氏が書かれた書籍「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争」(産経新聞出版 平成25年10月7日第一刷発行)を基に、日本海ツーリスト株式会社の谷本氏に行程の作成を依頼して、日本統治時代の先人や大東亜戰爭にて散華された御英靈、空襲などにより戰災殉難死された御靈に対して慰靈顕彰と感謝のまことを捧げるべく、現地台湾へ赴く旅を実施いたしました。
3月9日(月)、栂野宮司より見送りの挨拶の後、栂野禰宜が団長となり、田林修一崇敬会副会長をはじめ、10名の団員にて富山空港を出発、台湾桃園国際空港へ現地時間の午後3時に到着。そして初日の宿泊先であります台湾北東部の宜蘭縣にある礁溪温泉へ移動しました。10日以降の行程は、訪問先を簡単に記し、写真にて詳細を報告します。
3月10日(火)
 ホテル → 宜蘭・旧日本陸軍飛行場跡 → 烏来・高砂義勇隊祈念碑 → 台北駅 → 高鐵嘉義駅 → 烏山頭ダム → 嘉義市内(車窓) → 台南市内(泊)
3月11日(水)
 ホテル → 台南市内・日本統治時代建築群(車窓) → 鎭安堂・飛虎将軍廟    → 高雄市内・旧高雄駅 旧高雄市役所 高雄忠烈祠(旧高雄神社) 高雄市内(泊)
3月12日(木)
 ホテル → 高鐵左營駅 → 高鐵新竹駅 → 新竹代天府 聖軍堂 → 台北市内・忠烈祠 芝山巌公園(六氏先生之碑) 台北市内(泊)
3月13日(金)
 ホテル → 台湾桃園国際空港 → 富山空港

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 宜蘭は、帝國陸軍の飛行場があつた所であり、富山縣出身の御英靈、髙田豊志命をはじめ多くの陸軍の特攻隊員が飛び立たれた飛行場であります。
折しも陸軍記念日の3月10日、飛行場跡へ向けてホテルを出発。現在周りには新しい住宅や学校などが建てられて様変はりしてをり、なかなか目的地へ辿りつけません。運転手が現地の住民に幾度も尋ねてやうやく到着。荒草生茂る風景の中には、飛行機が収納されてゐたであらう建物などが残されてをり、バスを降りて滑走路跡と思はれるところまで移動して、皇居、靖國神社の方向に向かひ、富山縣護國神社の御神酒をお供へし、一同で大祓詞を奏上、拜禮いたしました。大祓詞の奏上を始めたその時、御英靈の涙雨か雨が降りはじめました。たくさんの若い方々が散華されたことを思ふと胸が熱く込み上げてくるのでありました。
 
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 次に台北から南東へ30キロの南勢渓沿ひの山間地、烏来へ移動。戦時中帝國軍に志願し、大和魂を持つて勇敢に戦つた台湾原住民「高砂挺身報国隊」の慰靈碑「高砂義勇隊祈念碑」に御神酒をお供へして参拜しました。高砂族とは、タイヤル族、アミ族など台湾先住民11部族の戰前の総称です。忠誠心が強く、ジャングルの生活になれた高砂族の兵士は日本の兵士のために食糧調達などもされ、届けようとしたが体力尽きて両手に食糧を抱へたまま餓死した高砂族の兵士もをられました。靖國神社には高砂族青年を含め二万七千余柱の台湾人の御靈が祀られてゐます。平成4年11月24日に台湾高砂義勇隊慰靈碑建立委員會主任委員、周麗梅(愛子)氏が中心となり建立、現在は烏来高砂義勇隊主題祈念園區に移設。慰靈碑には李登輝元総統揮毫の「靈安故郷」(御靈らは故郷の地に安らかに鎭まりいませ彌遠永にの心か)、本間雅晴中将の遺詠「かくありて許さるべきや密林のかなたに消えし戰友を思へば」が刻まれてゐます。
 
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 次に台北駅から嘉義駅まで新幹線で移動し、烏山頭ダムへ移動。当時総貯水量東洋一の大規模なダムと総延長1万6千キロに及ぶ給排水路は、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」といふ日本統治時代に石川県出身の八田與一技師によつて10年の歳月をかけて昭和5年に完成した農業水利事業で、ダム湖のほとりに建つ銅像と御夫妻の墓を参拜しました。私たちの前に参拜された方々がお供へされたのか、瑞々しく綺麗な花がお供へしてありました。昭和17年5月8日、八田與一氏はフィリピンの綿作灌漑調査に向かふ途中、乗船する船がアメリカの潜水艦に攻撃されて殉職。終戦後の昭和20年9月1日、外代樹夫人は夫が精魂込めて造り上げたダムの放水路に身を投じたのでありました。地元の人々は夫妻の死を悼み、翌年ダム湖のほとりに二人の墓を建て、以来、命日の5月8日には墓前祭が毎年欠かさず執り行はれてをります。
 
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 次に、当初の予定を変更して映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の舞台、嘉義市内を車窓より見学。昭和6年、嘉義農林学校(略称:かのう)の野球部は、漢人(台湾人)、蕃人(台湾先住民)、日本人(内地人)の3民族混合の部員で構成され、愛媛県立商業学校(現在の松山商業高等学校)出身の近藤兵太郎監督が、昭和6年、第17回全国中学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)で準優勝と活躍し、諦めない精神で戦ふ姿は、万民に等しく活躍できる可能性があることを示したのでありました。日も暮れて明かりが灯る市内は、予想以上に近代的な街並みであり、町の中心地にあるロータリーには、甲子園で活躍した呉明捷投手の銅像が建つてをりました。嘉義市内では、嘉義神社の趣がほとんど残つてゐるといふ嘉義公園へも行きたかつたのですが時間の都合上で断念、宿泊地の台南市へ移動しました。
 
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 11日は、台南市内で現在も使用されてゐる日本統治時代の建物を車窓より眺め、護國の英雄として崇められてゐる杉浦茂峰少尉を祀る「鎭安堂」(通称「飛虎将軍廟」)へ移動。國歌「君が代」と「海ゆかば」を斉唱、奉唱した後、台湾式の作法にて参拜、日本より持参した煙草をお供へしました。台南市、高雄市には帝國海軍の飛行場があり、昭和19年10月12日、台南市上空で激烈な空中戦により1機の零戦が村への墜落を避けて散華されたのでした。村人たちはその後、杉浦少尉の御靈を祀る祠を建て、村が安泰繁栄すると更に崇敬の念篤く廟として建替へられました。我々が参拜する前日に、東京と東北の有志の方々が「神轎」(日本でいふ「神輿」)が奉納され、その神轎の天辺、日本の神輿ならば鳳凰が飾られてゐる部分には、零戦の操縦士であつた少尉に因み金色燦然たる「零戦」が飾られてゐました。廟を管理する人々は、我々日本人に対してとても温かくもてなしてくださり、「海ゆかば」を歌つてゐる時は、涙を流してをられました。
 
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 次に高雄市内へ移動。旧高雄駅・旧高雄市役所を見学し、旧高雄神社であつた万寿山頂の高雄忠烈祠へ移動。鳥居や社殿は中華風に造り替へられてゐますが、参道に建つ大灯篭(上部は別物に変へられてゐる)には、戦後塞がれたモルタルが剝れて「大東亜戰争完遂祈願」と刻まれた文字が見えてをり、建立当時が偲ばれるのでした。また、この日は東日本大震災の日でありましたので、被災された方々の御靈に対し、また世界一の義捐金を送つていただきました台湾の方々に感謝申上げ、参加者一同夕食前に黙祷をいたしました。
 
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 12日は高雄市から新竹市へ新幹線で移動。新竹代天府の敷地内にある「聖軍堂」を参拜いたしました。旅行前2月15日の産経新聞の、「台湾、日本兵弔い70年」との記事にて、軍服も軍帽も金色に輝き軍刀を携へた日本兵を象つた3体の御神像があり、今も慰靈が続けられてゐるといふことがわかり、予定を変更して参拜した「聖軍堂」であります。管理してをられる方は不在でありましたが、御神酒をお供へしてお参りをさせていただきました。
 
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 次に台北市へ移動して昼食、その後忠烈祠へ移動して見学・参拜の後、「六氏先生之墓」が祀られてゐる芝山巌公園へ移動して参拜しました。芝山巌学堂で日本語教育を行つてゐた6人の教師が、当時日本統治に反対する勢力の暴動が頻発してゐた中、避難の勧めもありましたが教育に命をかけてゐることを示すために残り、明治29年1月1日、元旦の拜賀式出席のため下山途中に匪賊と遭遇、教育の重要性を説いたが受け入れらずに惨殺されました。6人の教育に対する情熱は芝山巌精神と称へられ、昭和5年に芝山巌神社が建立され、昭和8年までに台湾教育に殉じた330人(内台湾人教育者24人)の御靈が祀られました。戰後国民党軍により破壊されましたが、大東亜戰爭終熄50年の平成7年に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学校の卒業生により「六氏先生之墓」が再建され、5年後に「学務官僚遭難之碑」も復元されました。以上、慰靈顕彰と感謝のまことを捧げるべく、限られた時間の中予定してゐた訪問先は、無事に滞りなく訪れることが出来ました。
 
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 移動中の道路や景色、建物などから、日本統治時代歴代の台湾総督、後藤新平や新渡戸稲造によつて整へられた台湾の近代化が、今も脈々と受け継がれつつ更に発展してゐる現在の様子を伺ひ知ることができ、先人の尊さが偲ばれるのでありました。