御英靈のお話6 高田豊志 命

01_takata_img.jpg01_takata_02.jpg昭和二十年五月十三日
沖縄本島西海岸沖にて特攻戦死
陸運少年飛行兵第十三期生
福光町才川七出身
数へ二十一歳

写真右)父・豊次郎さんが、八十歳を超えられ「白木の箱」を開ける決心をされる。仏壇に永くをさめられた白木の箱から発見されたのがこの大学ノートに書きとどめられた「うたにつき」であった。

遺芳館アナウンスガイド6
高田 豊志命(たかだ とよしのみこと)
 
 陸軍少年飛行兵第十三期生 陸軍少尉
 沖縄本島西海岸沖にて特攻戰死
 福光町才川七出身 十九才
 

 高田豊志さんは、大正十四年六月一日、父豊次郎、母はるの長男として生をうけました。優秀であつたため、しばらく西太美村役場に勤めらてゐましたが、昭和十六年十月陸軍少年飛行兵として、東京陸軍少年飛行学校入校後、十九年三月、第十三期陸軍少年飛行兵となり戰地に赴かれたのです。やがて南方の戰局が次第に苛烈を極めると、台湾第一八九六八部隊に配属され、「陸軍特別攻撃隊員」となられたのです。台湾でのエピソードとして、旅館の娘さんに自転車に乗せてくれとせがまれ、宜蘭の街を走つてゐたところ、警察官に咎められ尋問されました。その時、耳の訓練をされてゐた豊志さんが、敵爆撃機が近づいてくることにいち早く気付き、そのことを警察官に話しましたが、その警察が何の事か理解できず、このままでは危ないと娘さんを乗せて走り、助かつたといふ話が伝へられています。
 その後、昭和二十年三月には、敵米大機動部隊が沖縄本島への攻撃をはじめ、五月十三日飛行第二十戰隊陸軍伍長として友軍機と共に、台湾宜蘭基地より出撃、抱へてゐた爆弾を冷静に命中させ、最後に自ら体当たり攻撃をされ、多大なる戰果をあげられたといひます。その活躍の一部始終を、宜蘭の基地で通信兵をしてをられた、同じ富山出身今村文一さんが『わたしの終戰』として書き残されてゐます。
 父豊次郎さんは、厚生省から受け取つた白木の箱を、昭和二十一年一月二十四日の村葬でも焼くことができず、ずっと仏壇にしまつてをられました。しかし自身も八十才を迎へ、余命幾許もないと感じ、才川御坊の奥様に相談し、開ける決意をされました。そこから出て来たのが、この遺書として残された『うたにつき』―歌集―でした。実に和歌七八三首、俳句十七、詩文九編でした。
 表紙には、霞ヶ浦上空を飛んでゐる景、本文冒頭に記す
一、一日一首とし、修養の資(かて)とす
二、之を以て遺集とす
と朱書きしています。つまり血書の思ひであつたのでせう。
 さらに、最後の手紙が届いたのは、特攻戰死されるおよそ一ヶ月前、四月二十一日であり、御両親を始め十三名の方々へ「今お別れの歌が不味いけれど出来ましたので・・・」として
・海山に劣らぬ親の厚恩に今ぞ報(こた)へむ國の為散り (お父様)
・夢にだに忘れぬ母のなみだをばいだきて三途の橋を渡らむ (お母様)
と認(したた)めてあつたのです。
 お母上に残された和歌は、今、富山縣護國神社独自の神楽「いでたちの舞」として神前に奉奏されてゐます。
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 (追記)
 偶然にも平成24年7月、一冊の本の寄贈により、高田豊志命の台湾でのエピソード、自転車に乗せてゐた娘さんは、その本の作者である中田好子さんといふことが分かりました。本の題名は、『十四歳の夏 特攻隊員の最期の日々を見つめた私』であり、平成24年7月30日に出版されてをられます。
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