昭和十二年十月十日
上海附近須宅方面にて戦死
婦負郡山田村出身
遺芳館アナウンスガイド1
竹森 義秋命(たけもり よしあきのみこと)
陸軍上等兵 支那事変 支那須宅(すたく)の激戰にて壮烈なる戰死 当時の婦負郡山田村出身
この遺書は竹森上等兵が出征に際し、「私が戰死したら読んで下さい」と言ひ残し、仏壇の中にしまつていかれたもので、御両親は戰死の知らせを受けた後、村役場の人に来てもらひ、その立会の下にこの遺書を開封されたと言ふことです。
竹森上等兵は、須宅の激戰中、単身二、三百人の敵陣中に突入し、白兵戰の末、十数名と斃死(へいし)し、自らも敵の小銃弾、手榴弾を十余ヶ所に浴びて昏倒(こんとう)されました。
四日後、友軍に依り発見され、直ちに野戰病院に収容されましたが、十月十日「天皇陛下万歳」を叫んで絶命されました。
「阿部信行陸軍大将揮毫(きごう)の日章旗」
父親の喜平さんは、わが子が生きて戰地から戻つてくることを信じてをられ、戰死公報が届いた時も、わが子ではない、何かの間違ひであると、小豆一升、長芋二本を担いで陸軍省へ出向かれました。しかし、草鞋(わらぢ)を履いての姿に、衛兵から乞食のやうなものが来る所ではないと取り合つてもらへず、門前払ひされてしまゐました。
それでも喜平さんは、諦めきれず陸軍省に執拗に迫り、阿部信行陸軍大将にお会ひする機会を得ることができました。
そこで、「息子が戰死した処へ連れて行つて欲しい」と懇願され、陸軍大将はつひに、「行くことは出来るが、帰つて来られるといふ保証はない、それでもよければ・・・」とのことで、支那須宅の激戰の地へいくことが叶ひ、戰友の話から、やうやく戰死されたことを認められたのでした。
陸軍大将まで動かした、一人息子を思ふ強い信念と愛情には、心を打たれるものがあります。その後、この出来事は、『講談社の絵本・支那事変忠勇感激談―イサマシイ竹森上等兵』(昭和十三年発行)にも掲載され、戰史美談として伝へられました。
この日章旗は、その時、阿部陸軍大将が揮毫され、「至誠息(や)むこと無し」と記されてゐます。支那現地で忠勇美談を語つた息子さんの戰友に囲まれた記念写真。前列中央が喜平さん。円内が竹森義秋命。
右のことは、昭和十三年発行の講談社の絵本『支那事変忠勇談・感激談』と『絵本・忠勇感激美談』の二冊に採り上げられてをります。